Rock History 80s
CBGB、マックスなどの店がオムニバス・アルバムを出し始めたことによって、まず自主制作が始まった。それがフリークス達の間にひろまると、今度は「ザ・パンク」「ニューヨーク・ロッカー」などの雑誌が「ローリング・ストーン誌」に対抗する形で出てきた。こうしたパンクとミニコミとストリート・レーベルの一体化は益々インディペンデント精神を盛り上げていったわけである。「どうせメジャーになれないのなら、自分たちで全部やっちゃえ」と。
そんな風にストリートが独自の形で盛り上がる中、一番最初にメジャーデビューしたのがパティ・スミスだった。彼女のライブを見て「ディランとジャニス以来の衝撃だ!」と元CBS社長で、現アリスタ・レコード社長のクライブ・デービスが感激し、75年にアリスタから「雌馬」がリリースされる。そして76年にはラモーンズの「ラモーンズの激情」、77年にトーキング・ヘッズの「サイコ・キラー’77」がリリースされ、ニューヨーク・パンクはにわかに脚光を集めるのである。
ニューヨークパンクの特徴というと、アート感覚の強いインテリロックだった。パティ・スミスは自分のアイドルとしてドアーズのジム・モリスン、ストーンズのブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、詩人のランボーを挙げるが、彼女自身も詩人的な要素を持ち、詩集を出版したり、サム・シェパードの劇に出演したり、ローリングストーン誌などの音楽雑誌でインタビュアーやライターの経験もある多彩な才能の持ち主だった。
パティ・スミスのバックのレニー・ケイもアイヴァン・クラールも音楽評論家を兼業し、リチャード・ヘルも映画の勉強をしていた。つまり、ロンドンの怒りのパンクに対して、ニューヨークのパンクは理論的なインテリ集団だったわけである。その中でアンチ・インテリ風の悪ガキ風な魅力を放っていたのがラモーンズであり、ニューヨークドールズの残党であったジェリー・ノーランとジョニー・サンダースが作ったハートブレイカーズである。ニューヨーク・ドールズのグルービーだったデボラ・ハリーはマックスのウェイトレスでもあったが、彼女のバンド、ブロンディもまたインテリ路線とは違ったタイプだった。
また、ニューヨーク・パンクに影響を与えた人物としてアンディー・ウォーホールがいる。ウォーホールやトルーマン・カポーティなどの芸術家達はマックスの常連でもあり、プロンディやニューヨーク・ドールズとかなり親しくしていた。もともとヴェルヴェット・アンダーグラウンドをプロデュースしたのもアンディー・ウォーホールだったが、アンダーグラウンドの文化人として、彼の存在はパンクス達の間では特別な存在で、マックスなどの店ではVIP扱いだった。
しかしながら、79年にパティ・スミスとスプリングスティーンの共作曲”ビコーズ・ザ・ナイト”が全米チャートのベストテンに入るヒットになったものの、パンクは結局のところアメリカの一般大衆には殆ど受け入れられなかった。むしろラモーンズやハートブレイカーズなどはヨーロッパで人気を博していた。ハートブレイカーズはピストルズの”アナーキー・ツアー”にゲストで出演したところウケまくり、それ以来イギリスに住み着いてしまったし、イギー・ホップにしてもルー・リードにしてもアメリカではさほど売れなかったが、ヨーロッパのフランス、ドイツなどには熱狂的なファンが多かった。日本においても、アメリカにおいても、パンクが業界内でも認められるようになるのは、ポリスなどのいわゆるニュー・ウェーブと呼ばれるようになってからのことだった。
しかし、だからといってニューヨーク・パンクがロンドン・パンクよりも存在価値が薄かったということでは決してない。セックス・ピストルズを育てたマルコム・マクラレンが、かつてニューヨーク・ドールズのマネージャーをしていたという事実を忘れてはいけない。
ニューヨーク・ドールズがイギリス公演をした時に、それを観て気に入ったマルコムは、既に壊滅状態だったドールズをもう一度売り出そうと考えた。その頃は、真っ赤なラバースーツを着せコミュニストの旗を揚げさせ、コミュニスト・バンク的なものをバンドにやらせたりもしていた。が、結局ジョニー・サンダースがそれをいやがって途中で辞めてしまったり、メンバー全員がドラッグでメロメロだったりの状態で長くは続かなかったのだが、ジョニー・サンダースやジェリー・ノーランが言うには、彼らの初期の態度、つまりジャーナリストにツバを吐いたり、バカヤローと怒鳴ったり、所かまわず「FUCK YOU」罵詈雑言を浴びせるという態度をマルコムが全部ピストルズに教え込んだのだというのだ。もともと彼らがニューヨーク・ドールズのファンだったということもあるが、そのドールズのマネージャーだったマルコムが自分たちのマネージャーをやってるということだけでもピストルズにとっては嬉しいことだったのである。
パンク・ファッションにしても、一番最初にTシャツをビリビリに破いて安全ピンで止めたりしていたのは、テレヴィジョンのリチャード・ヘルだった。それを見てマルコムがピストルズの連中に同じ格好をさせたわけで、そのスタイルを有名にしたのはピストルズでも、アイデアはリチャード・ヘルの方が先だったのだ。パンク・ファッションというと、今でも取り上げられるのはロンドン・パンクの方ばかりだが、そのルーツが実はアメリカのニューヨークにあったのである。
ニューヨークに1,2年遅れてロスにもパンク・クラブがたくさんでき、バンドも生まれポンプ・レコードというインディーズ・レーベルもあるにはあったが、ほとんどローカルなイメージのバンドばかりでオリジナリティのあるバンドは出現しなかった。
ニューヨーク・パンクが生まれても、アメリカ全土ではパンク・ブームが起きなかった。ロンドンと同じようにはいかなかったのである。なぜならアメリカはイギリスに比べあまりにも広大だった。77年にピストルズがアメリカ・ツアーをしたが、それもまったく不評に終わっている。しかし、このとき蒔かれたピストルズのパンクの種は、後にニルヴァーナというグランジの花を咲かせる事となる。
ANARCHY IN THE U.K.
1975年当時、イギリスのラジオから流れてくるロックは、若者達の社会に対する不満とは全く別の世界のものばかりだった。斜陽帝国と化したイギリスの失業者数は200万人に達し、青年層だけでも約70万人の若者が失業にあえいでいた。大学進学率はわずかに4%、肉体労働にありつければまだマシで、多くの若者はわずかな失業保険で暮らすしかなかった。ストリートに鬱積するフラストレーションはまさにピークに達していた。
しかし、何かが起こり始めていた。それは何かを変えようとする若い世代の爆発でもあり、低迷するロック・シーンへの挑戦状でもあった。そして、76年、セックス・ピストルズの登場である。その時からロンドンの街角には破れたTシャツをスプレー・ペインティングと安全ピンで飾り、髪を短くツンツンに立てた若者でいっぱいになったのだ。
75年に結成されたピストルズは、76年には既にライブハウスを荒らしまくっていた。正式なギグデビューは76年の1月だが、それまでは他のバンドのギグにサポートとして登場してはステージをめちゃくちゃにしていたものだった。その為、マーキー、ナッシュビルなどのライブハウスは出演禁止、ロック・ガーデンからも閉め出され、ロンドンではワン・ハンドレッド・クラブ以外は殆ど演奏できない状態だった。これはまだデビュー前の話である。
その後、テレビ出演の際の問題発言、EMI、A&Mなどのレコード会社からの契約解消、過激なゆえストップさせられたライブ活動など、彼らに関するエピソードは数多くあるが、それゆえ彼らの存在は多くの若者にアピールした。ロンドン・キッズを惹きつけてやまなかったその魅力は、当時失われつつあったロックのエキサイティングなスピリツトを体現したステージングと躍動的な社会告発であり、それは誰もが待ち望んでいたものだったのだ。
その証拠に、同時期ピストルズだけでなく、多くのパンクバンドが出現している。初期の5大バンドとして挙げられるのがピストルズ、クラッシュ、ストラングラーズ、ダムド、ジャムだが、それらのバンドに触発され、ジェネレーションX、バズコックスなどそれこそ1000にものぼるバンドが雨後のたけのこの様に続出し、ピストルズのセンセーショナルな登場を契機にパンクは瞬く間にイギリスのロックシーンの主流となったのである。
アメリカではニューヨークでしか受け入れられなかったパンクがイギリスであれほど受けた理由はまず社会状況にあった。ポンド失落による失業率の増加や移民問題、ナショナル・フロントなどの右翼の台頭、当時は見るもの全て、若者が反発したくなるような状況だった。そして大手メーカーに対抗するインデイペンデントのレコードが、かなりの勢いで流通していったせいもあるだろう。アメリカに比べ狭い国土ゆえカルチャーの浸透も速く、ファンジンも活発だった。76年以降になると、ハードロック中心だったメロディ・メーカー誌もパンク色を強め、音楽シーンがこぞってパンクに流れはじめたのである。
パンク・ロックが出現する音楽背景には、74年頃から一部のマニアックな音楽ファンに支持されていたパブ・ロックがある。イギリスの伝統的なパブでは、常にブルースやR&Rなどのルーツ・ミュージックが演奏され、初期のストーンズタイプのバンドやイアン・デューリーのキルバーン&ハイロードなどが活躍していた。それを観に来ていたのがピストルズやクラッシュの連中だったのである。
その当時、パブ・ロックはセンセーショナルな話題もなく、ルックスもさほど良くなかったため、あくまでもパブの中の音楽でしかなかったが、パンクが評価されると同時に、パブ・ロックのミュージシャンも高く評価されるようになった。
パブ・ロックで育った若者が楽器を持ち自分たちでビート・ミュージックをやろうとした。それがパンク・ロックの予兆だったわけである。
何しろパンクは誰でもすぐに演奏できたのだ。3コードで楽器を手にした次の日からステージに立つことも可能だった。それまでのロックは、スーパースターがやる音楽だった。ところがパブで聴いた音楽、初期のブリティッシュ・ビート風の音楽をやってみたらすぐ弾けた。言いたいことをそれにのせればてっとり早く歌になる。レコードも自主盤で200ポンドもあれば作れる。バンドが益々面白くなってくる。そんな風にして、パンク・ロックによって産業ロックとは別の、自主メディアでのロックが再び活発になっていったのだ。50年代のロックがそうだったように、パンク・ロックの登場と共に、イギリスのロックはストリートの若者達の手に帰ってきたのである。
しかし、パンクとしてのムーブメントはそう長く続かなかった。ジョニー・ロットンが、たったの2年でピストルズを脱退してしまったことにも象徴されるがパンクはその後、ニュー・ウェイブという形になって更なる商業性を獲得しながら拡がっていくことになる。
79年頃には政治的な歌詞や社会に対するメッセージ性を重視したパンクに、より音楽的なエッセンスを加えたサウンドが登場。ポリス、プリテンダーズ、XTCなどのニューウェーブグルーブであった。パンク畑から出ながら、メロディアスな曲を作るエルビス・コステロなどもヒットを飛ばし、サウンドはパンクではないがゲイの解放を歌ったトム・ロビンソンや、パンクでもメッセージではなく、もつと幻想的なイメージを強めたスージー&ザ・バンシーズなど、攻撃的なパンクの様式から派生し様々なタイプのロックが誕生することになる。
中でも、在英ジャマイカンのマイキィ・ドレッドなどは、クラッシュのアルバム「サンディニスタ」等に大きく関わり、黒人のレゲエと白人のパンクの密接なつながりを提示したし、当時はパンクと反ナチ、人種差別反対を掲げるスティール・バルスやアスワド等のブリティッシュレゲエバンドがよく共同のギグを行ったりしていて、反抗する音楽として、パンクとレゲエの姿勢には共通する部分が多かった。ボブ・マーリィのコンサートにジョニー・ロットンが観に来ていたり、、クラッシュが開演前に延々とレゲエを流したり、ボブ・マーリィが「パンキー・レゲエ・パーティー」という曲をレコーディングするなど、パンクス達にとってレゲエはひとつの精神的なバイブルであり、またレゲエのアーティストもパンクに理解を示していたのである。そこから、ルード・ボーイズと呼ばれた、スペシャルズ、セレクター、マッドネスなどスカ・ビートを取り入れたバンドが誕生し、後にはUB40のような白人黒人混合のパンク・レゲエバンドが出てくるわけである。そういったパンクやレゲエ、ニューウェーブのムーブメントにより、、ストリートに戻ったロックは同時に社会的なアピール度、直接的な行動力を強めていき、その発展形がライブ・エイド、ボブ・ゲルドフへとつながってくるのである。
つまり、もともと社会とコミットする音楽、カルチャーを代弁するロックは、もはやお城に住むミュージシャンではなく、ストリートに立つ若者と同じ立場にいるミュージシャンによってでしか成り立たないということなのだ。パンクの出現は、そのことを改めて認識させるものでもあった。
ところで、79年にシド・ヴィシャスがヘロインの過剰摂取で死亡し、それがパンクの終焉とされているが、当時はまだストラングラーズもジャムもクラッシュもダムドも健在だった。それならなぜパンクはだめになってしまったのだろうか。それはやはりひとつには音楽的な限界と、彼らがヒーローになってしまったが故に再び従来のロックのスター・システムの中に組み込まれていったからと言えるかもしれない。パンクがムーブメントからブームへと移行するなかで、パンクバンドの多くが次から次へとメジャーシステムへ吸収されていった。メジャーを否定しインディペンデントを主張していた思想が段々と失われ、結局それをステップにしてメジャーへ行き儲けようと言う、旧来のロックのシステムの中に徐々に吸収されてしまったのだ。
ピストルズは77年当時は「こんな音楽業界なんかオレがクソつぶしてやる!!」と、ポール・ウェラーも「30になった奴は信用するな。俺達は30になったらバンドなんてやってないぜ」と言っている。が、そう言っていた本人達も現在では、ジョニー・ロットンもかつてあれほど否定していた、ジンジャー・べイカーやスティーブ・バイなどのハード・ロックの連中とポップなアルバムを作っているし、激しいビート・ミュージックを演奏していたポール・ウェラーも、スタイル・カウンシルでお洒落なサウンドを展開、ジョー・ストラマーも一時は活動を停止し映画音楽やメキシコ音楽に熱を入れ、ストラングラーズもテクノ・ポップになってしまったのだ。かつての怒れるパンクスであった奴らが、みんなパンクから足を洗い口々に”もうパンクは終わった”と語っているのである。
ある意味で、パンクのヒーロー達はジャニス・ジョプリンやジム・モリソンが60年代を象徴したような形では、70年代という時代を象徴する存在にはなり得なかった。77年から79年の間のパンクを象徴したかもしれないが、それはピストルズだけでなく、クラッシュやダムドなどを含めた多くのバンドがムーブメント総体として象徴していたのである。
彼らの存在は確かに重要だった。その時期にロックシーンを転換させ、ロックの価値観を変え、それまで受け入れられなかった音楽がメジャーと契約できるようになり、インディペンデント・レーベルなどロックを取り巻くそれまでのシステムを大きく揺り動かしたという意味でもパンクはイギリスのロックシーンにはなくてはならないものだった。しかしそれは発火点でしかなく、結局のところ現実にこの巨大なロックの産業システムが倒れることはなかったのである。
しかし、パンクはロックシーンに確かに大きな爪痕を残した。単なるファッションとしての定着を超えて。ただ単にパンクの様式を現在に踏襲しているハードコアパンクスの連中だけにとどまらず、様々な実験音楽を創造していったポップ・グループやオルタナティブノイズミュージックの連中へと。
テクノ〜ニュー・ウェイヴ
78年1月のセックス・ピストルズ解散声明と前後して、徐々に初期パンク・ロックがシーンから後退していくに伴い、パンク・ロックはレコード産業によってニュー・ウェイヴと名前を変えられ、新たな商業路線を歩み始めることになる。
一般的にはニュー・ウェイヴとは、パンク・ロックをよりポップにかつ音楽的にしたものとして捉えられたが、その中にはリッチ・キッズ、モーターズなどポワー・ポップとも呼ばれたパンク・ロックのポップ版バンドなど様々なグループが存在していたわけで、音楽性云々よりも、パンクを通過した新しい世代によるロック・ミュージックとして、むしろ80年代以降のロックの流れを新たに形成していく動きであったと捉えることができるだろう。
そのニュー・ウェイヴの発展に一役買ったのが、シンセサイザーや、リズム・マシーン等々のデジタル楽器の発達、普及であった。
つまり、従来のバンド形態を取らずとも、リズム・ボックスやシンセサイザーがあれば、たった一人でもバンドができてしまうといデジタルの導入による発想の転換は、かつてのドラム、ベース、ギターの編成で3コードのビート・ミュージックを演奏するといった初期パンクの積極性とはまた違った観点から、多くの若者達を音楽に向かわせた。
そのようなシンセサイザーやリズム・ボックス等のデジタル機器を積極的に取り込んだロックはテクノ・ポップと呼ばれたが、そのルーツとなったのは74年「アウトバーン」の大ヒットを放ったドイツのプログレッシヴ・ロックの流れから浮上してきたクラフトワークの存在だった。シンセサイザーによる新たな音楽の創造という点ではロバート・フリップやデヴィット・ボウイとのコラボレーション・アルバムを提出してきたブライアン・イーノの貢献も忘れることはできない。
イギリスのテクノ・ポップの初期には77年1月にシングル・デビューしているジョン・フォックス率いるウルトラボックスや78年ビューのXTCなどがあり、アメリカでは、78年デビューのデイーヴォや79年デビューのB’52Sなど、ただ単にシンセサイザーを使っただけでなく、工業都市の無機的な人造人間風の、シニカルで文明批評的なコンセプトを持つ、特異なキャラクター性を感じさせるミュージシャンが多く登場した。
その中でイギリス最大のテクノ・ポップ・エイジのスターとなったのが、79年6月シングル「アー・フレンズ・エレクトリック」を全英1位に送り込んだチューヴウェイ・アーミーのゲイリー・ニューマンであった。彼は自らをエレクトロニクス時代のアンドロイドと見なし、人間と機械の対話という観点から、それまでの安易なヒューマニズム的な音楽の捉え方に疑問をなげかけた。
そういったシンセサイザーによるエレクトロニクス・ミュージックの流行は、デベッシュ・モードシンプル・マインズといったバンドに受け継がれ、80年代後半になってディスコ・ビート等を取り入れたエレクトロ・ダンス・ミュージックとして新たな人気をつかんでいくが、そういった商業路線とは別の地平で、新たなエレクトロニクス音楽、工業都市音楽を創造していたのがキャバレー・ボルテールやディス・ヒートらの実験的なバンドで、彼らのような従来のロックやポップの在り方を激しく解体していくようなミュージシャン達の音楽は、俗にオルターナティヴ・ミュージックと呼ばれた。
オルターナティブ・ミュージックの、従来のロックの解体という姿勢は、パンク・ロックでさえ音楽的には通常のロックン・ロールであったという常識を、音楽的にも根底からくつがえすものであった。そういった動きのマニフェスト的宣言となった。
”ロックはもう死に絶えた!!” というセリフが、そのパンク・ロックの立て役者であったセックス・ピストルズのジョニー・ロットンの口から発せられたというのは実に興味深い。ピストルズ解散後、78年12月に新たなるグループ、パブリック・イメージ・リミテッド(PIL)を率いてデビュー・アルバムを発表したジョン・ライドンは、その言葉通り、従来のロックのイメージとは大きく隔ったダブ的手法を大胆に導入したノイジーでメタリックなサウンドを表現し、おまけにレコード会社と喧嘩をしてジャケットを金属缶に変えさせたり、マネージャーやプロデューサーの存在を否定するなど、従来のロック業界のシステムに大きく挑戦する態度を取っていった。もっとも、彼のその姿勢はその後いつの間にか随分と普通のロック・スターと変わらないものにもどってしまったわけだが..
いずれにしろ、ジョン・ライドンの”ロックはもう死んだ”という言葉を合い言葉に、それまでのロック的形態を解体するような様々な実験的かつ先鋭的な意識とサウンドを指向するバンドが大挙浮上してきたのだ。
パンクの二分羽のハード・パンク・サウンドからよりアブストラクトな不協和音的方向にすすんで”パンクのピンク・フロイド”とも呼ばれたワイアーもまた、”ロックでなければ何でもいい”と、これまた有名なセリフを残しているし、アイルランド兵の囚人達に対する凄惨な拷問のリポート等の政治的主張を多く語りながら、ダブとフリー・ジャズとファンクの混合のような破壊的なサウンドを展開していったポップ・グループ、レゲエのデニス・ボーヴェルと組むことでより土俗的なプリミティブ・ビートを指向していったスリッツなど、この時期のオルターナティブ派のミュージシャンにはシーンに確かな衝撃を与えた忘れられないグループが多い。
そしてそういった実験的なミュージシャンに積極的に発表の場を与えたのが、ラフ・トレード、チェリー・レッド、インダストリアル・ファクトリーといった多くのインディペンデント・レーベルの存在であった。パンク・ロックが時代にまいた種子としてスティッフ、チズウィックらに始まるインディーズ・レーベルの誕生とメジャー的価値観とは異なる独自の方法論で先鋭的なアーティスト達を発掘していくという流れがここにきて更なる規模と共に定着したわけだ。
例えばラフ・トレードなどは会社発足当時からそのアーティストと専属契約を結ばないことでアーティストの束縛を回避し、また彼らの経営するレコードショップでは彼らがくだらないと思うレコードは扱わないという姿勢をつらぬき、明確なポリシーを伴った運営がなされていた。そんなオルターナティブ・ミュージック、インディペンデントの時代を象徴する存在となったのが、マンチェスターのファクトリー・レコード所属のジョイ・ディヴィジョンであった。
77年にワルシャワというボンドを母体として結成され、79年にファクトリーから「アンノウン・プレジャー」でアルバム・デビューしたジョイ・ディヴィジョンは、ヴォーカリスト、イアン・カーティスの文学的かつ内省的な歌世界と深淵なるサウンドで、ゴチック・ロマン派などとも呼ばれたが、80年5月にイアン・カーティスが首吊り自殺を遂げると、実質的なラスト・アルバムとなった、セカンドアルバム「クローサー」はチャートの1位に輝き、インディーズながら1年以上にも渡ってチャート・インするというロングセラーとなったのである。ある意味で、イアン・カーティスの自殺は、70年代末期のパンク・ロック革命の敗北を象徴する物であり、イギリスの若者達の精神の深部に横たわる深い絶望感を暗示するものであったと言えるかもしれない。
このジョイ・ディヴィジョンの流れはバウハウス、サウンズ、ダンス・ソサエティ等のゴチック派の流れの中に受け継がれ、ジョイ・ディヴィジョンの残党組は新たにニュー・オーダーを結成して、エレクトロ・ダンス・ミュージック路線を追求していく。
80年代に入ると、ニュー・ウェイヴの音楽性も様々に分極され、アズティク・カメラ、エヴリシング・バット・ザ・ガール等のネオ・アコースティク派が人気を集め、その中でもザ・スミスはインディーズから登場した国民的スターとして、そのリリカルなアコースティク・サウンドとヴォーカリスト、モリッシーの歌う厭世的な歌詞で、イギリスの貧しい青春を生きる若者達の間でカリスマ的な存在になっていった。
ニュー・ウェイヴから派生した商業路線としてはデュラン・デュラン、アダム&ジ・アンツらがニュー・ロマンティクと呼ばれ、ダンス・ビートとアイドル的なルックスで人気を集め、この流れはカルチャー・クラブの他、バウ・ワウ・ワウ、ABC等のダンス・ポップ、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドやアート・オブ・ノイズらのZTTのデジタル・ダンス派、スタイル・カウンシルやシンプリー・レッドらのポップ・ソウル派へと分極されていく。
そして先のジョイ・ディヴィジョンらのゴチック派の流れと並行したエコー&ザ・バニーメン、ジュリアン・コープ、キュアーらのネオ・サイケ派も確実な人気をつかみ、この流れの中から出たU2は、そのサウンドをより広大なものとしながら80年代末期のスーパー・グループとしての世界的な人気をつかんでいくのである。
ハードコア・ポジティヴ・パンク
80年代に入ると、ピストルズと共に闘ったクラッシュ、ジャム、ダムド、ストラングラーズ等も、80年代に入ると解散や大幅にパンクとは異なる音楽性を展開するようになっていった。79年の3作目「ロンドン・コーリング」のレコーディングを契機に、長期アメリカに滞在をするようになったクラッシュに対して、かつてのファン達から”イギリスを裏切ってアメリカにコビを売っている”等の批判も出てきた。
そんななかでパンク・ロック第二期グループの中から登場してきたシャム69は、初期パンク・ロックの持っていたツッパリを着実に受け継ぐ存在だったが、たび重なるパンクスとスキンヘッズの乱闘が原因で、79年には解散してしまった。
そして、世の中がニュー・ウェイヴのもとにポップ化し、またそれに反発する形でのオルターナティブ派らのノイズ・ミュージックが登場してくる中で、かつてのピストルズが声高に叫んだ”英国にアナーキー”を自ら実践していこうという集団にクラスがいた。
彼らのレコード・ジャケットはそのあまりにも反社会的なイラストや写真が原因で、レコード点から軒並みボイコットされるなど物議も度々かもした。
クラスの音楽性は単純なパンク・ロックというよりも、ヘヴィに沈殿していくような覚醒的な攻撃性を秘めたものだったが、彼らの徹底したラディカリズムとアナーキズムは、次の新しいパンク世代に確実に大きな影響を与えたいた。
80年代に入るとかつてのパンク・ロックという言葉はメインストリームでは確実に死語と化し、キングス・ロードには観光客の小銭目当てのファッション・パンクスが見せ物的に徘徊するような光景も目立ち、”パンク・ロックは死んだ”とさえ言われるようになった。事実かつてのパンク・ロックの王者、ジョニー・ロットンは”ロックはもはや死に絶えた”さえ言い放ったのだ。
だがそういったメインストリームがニュー・ウェイヴの商業路線に浸食されていくのに反発を露わにする若者達が、マンチェスターやリーズ、グラスゴー、ニューキャッスルといったイギリス中部〜北部地域の地方都市を中心に台頭するようになる。彼らはピストルズやクラッシュ等の第一期ロンドン・パンクの活躍時に、客として彼らを支持していたローティーンの若者達であった。
そして彼らは自らがハイティーンとなり、発言権を得た時に、かつてのパンク・スピリットを自らのものとして新たに掲げようとしたのである
”パンクス・イズ・ノット・デッド”を合言葉に第三期パンク・ロッカーと言われるハード・コア・パンクの若者達が80〜82年にかけて一勢蜂起する。
それらハード・コア・パンクは、初期パンクにあったある種のポップさは徹底的に排したどこまでも攻撃的で暴力的なビートと叫びとスピード感を有していた。
ディスオーダー、カオスUK、カオスティッ・ディスコードといったハードコアの連中は、あくまでもメジャーに拮抗する形で、激しい”反戦・反核・反暴力”といったメッセージを正面から掲げ、トロージャ・ヘアーと呼ばれるニワトリのトサカのような過激なファッションで気炎を吐いた。
そのなかでディスチャージとエクスプロイテッドの2バンドは、ハード・コア・パンクの政治的なメッセージ性と、スピーディでヘヴィなサウンドでかなりの注目を集めた。しかし、結果的にメジャー・レーベルの大衆性は獲得できず、またそのサウンドをヘヴィ・メタル化させるものなども出てきたり、右翼的な愛国主義者達のオイ・パンクなどが混在する中で、現在も存在し続けているが、イギリスのシーンそのものを揺り動かす力にはなっていないというのが現状だ。
一方パンクの流れとサイケデリックの流れの混合から生み出された一派にポジティヴ・パンクと呼ばれた連中がいた。サザン・デス・カルト、セックス・ギャング・チルドレン等のグループは、キリング・ジョークやバウハウスらの流れを継承しながら、ある種祭儀的なイメージと覚醒的なサイケデリック感をパンク・ビートの中に導入させていたと言えるが、「バッドケイヴ」などのクラブがファッション化するなかで次第に”ポジティヴ・パンク”なる呼び名は消滅していってしまった。
そのなかで80年代風ハード・ロック・バンドとしての独自の存在をアピールしたのは、サザン・デス・カルト改め、カルトであった。その後、ニュー・モデル、ミッションらこの手のバンドは皆、80年代ブリティッシュ・ハード・ロック路線を歩んでいる。
アメリカン・ニューウェイヴ〜ヒップホップ
78年8月にテレヴィジョンが解散、79年にはいるとパティ・スミスやリチャード・ヘルらの初期ニューヨーク・パンクのカリスマ達が次々と引退、ハートブレイカーズのジョニー・サンダースも77年頃から早々と活動の場をイギリスに移してしまい、ニューヨークのストリート・シーンに対する話題も下火になっていく。
それらニューヨーク・アンダーグラウンドの流れを受け継ぐ者として、ティーンエイジ・ジーザス、マースら”ノー・ウェイヴ”と呼ばれた過激でノイジーなアヴァンギャルド派パンクの連中が登場し、その中から出たコントーションズのジェームス・チャンスやティーンエイジ・ジーザスのリディア・ランチはソロとしても過激路線を追求していったが、ローカルな人気を超えることはできなかった。
しかし彼らと契約していたZEレーベルは、その後キッド・クレオール&ココナッツなど新しいダンス音楽としてのニュー・ウェイヴ路線を追求し、ニューヨークのディスコ・シーンに新たな流れを付け加えていく。またジェームス・チャンスやリディア・ランチらの活躍は、その後80年代後半になって、スワンズ、ソニック・ユースらの俗に言う”USジャンク派”の中に受け継がれていく。
勿論ニューヨークやロンドンのパンクムーヴメントはロスやサンフランシスコなどのアメリカ西海岸にも飛び火し、ロスのウイスキーやシスコのマブヘイ・ガーデンなどのクラブを拠点にデッド・ケネディーズ、ディッキーズ、Xなどの幾つかの優れたグループを生んだが、その多くはニューヨークの知性派パンクスに比べ、モロにロンドン・パンクスの過激さを取り込んだハード・コア・タイプのバンドが多かった。この流れは80年代後半の西海岸のスラッシュ・メタルやスケーターズ・ロックの動きに連なっていく。
80年代に入ってイギリスのパンクがニュー・ウェイヴとしての商業路線の中で葛藤したり変容していったのに対し、むしろイギリスのような切羽詰まったような社会状況がなかったアメリカでは、このニュー・ウェイヴは体のいいロックン・ロール・リバイバルとして、レコード会社に利用された向きも強かった。
そんな中から出たモーテルズ、ゴーゴーズなどは商業的なポップさを活かしながらも自分たちの歌うべき世界を持っていたグループだった。イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」によって、アメリカ西海岸の良き日々が幻想に終わってしまったことを嫌でも実感せざるを得なかった旧世代の西海岸ロッカーの中でも、ニール・ヤングはディーヴォと共演したりジョニー・ロットンに捧げた「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」という曲を歌うなど、パンク〜ニュー・ウェイヴへの共感の姿勢も見せたし、ロスのウォーレン・ジボンは他の西海岸のさわやか派達とは一線を画した、ニューヨークのルー・リードにも通じるジャンキーの歌など、ハードボイルドな作風を既に76年のデビュー・アルバムから示し、数少ない硬派として頑張っていた。
トム・ペティ&ハートブレイカーズ、ヴァン・ヘイレン、ホール&オーツなど幾つかの例外をのぞいては、80年代前半のアメリカのロック・シーンは、完全にイギリス勢に占領されてしまった感があった。MTVの全米的な普及に伴い、カルチャー・クラブ、デュラン・デュラン、トンプソン・ツインズ等々、ビジュアル性に優れ、適度にモダンで踊れる英国産のニューウェイヴ・ダンス・バンドがヒット・チャートの上位を独占していった。これを俗に”第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン”と呼ぶ。
そんな中で80年代ロックの流れを変える重要な存在となったのは、先の77年のニューヨーク・パンクの流れの中から登場したトーキング・ヘッズだった。彼らはその初期から他のパンク勢とは一線を画したソウル・ミュージックからの影響を感じさせていたが、80年にブライアン・イーノのプロデュースで発表した「リメイン・イン・ライト」のアルバムで大胆なエスノ・ファンク・ビートを取り込み、ステージでもバーラメント/ファンカデリックのメンバー、バーニー・ウォーレルや元ラベルのノーナ・ヘンドリックスを参加させるなど、積極的に白人音楽と黒人音楽の壁を取り除く活動を行っていた。
そういった黒人音楽のアメリカ社会への巻き返しは、パンク・ムーヴメントの過ぎ去ったニューヨークの黒人街から沸き起こってきた。79年に「ラッパーズ・ディライト」のヒットを飛ばしたシュガーヒル・ギャングや「ザ・ブレイクス」をソウル・チャートの一位にしたカーティス・ブロウらによって広まったラップは、黒人特有のアクセントとノリで彼らのストリート・ライフや社会的なメッセージを、ダンス・ビートに乗せて喋りまくるといったものだが、このラップがニューヨークの街角の黒人達のストリート・アートであるグラフィティや、ブレイク・ダンスと結びついて、82年頃にはヒップ・ホップとして広く世界中に浸透していくことになる。