ROCK HISTORY 90S
そのヒップ・ホップはある意味で、黒人達によるパンクにも通じる一大ムーブメントであり、そのリーダー的存在となったのが82年に「プラネット・ロック」の大ヒットを放ったアフリカ・バンバータであった。
バータらのヒップ・ホップDJは、既存のレコード盤の好みの部分を手でスクラッチしながら取り出し、ミキサーを通して他のレコードのサウンドに次々につなげるという、音楽史上にも例のない画期的な試みを発明した。
そしてただ単にソウルやファンクなどの黒人音楽だけでなく、クラフトワークらのテクノ・ポップや、レッド・ツェッペリンやAC/DC等のヘビィ・メタルなど、様々なジャンルの音楽を境界無く使用するという点でも、画期的であった。
86年にエアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」を使って、当のエアロスミスまで引っぱり出して大ヒットを飛ばしたラン・DMCはその成功例の典型であるし、アフリカ・バンバータはPILのジョン・ライドンとも共演して見せた。
このヒップ・ホップのブームは白人の若者達をも刺激し、以前はハード・コア・パンクをやっていたビースティ・ボーイズなどの白人悪ガキ・ラッパー達も生みだし、また彼らのサウンドに刺激されたイギリスのハード・ロック・バンドのカルトが彼らのプロデューサーのリック・ルーヴィンにアルバム制作を依頼するなどのリアクションも見られた。
現在ラップのレコードはアメリカのブラック・ミュージックの約4割を占める売れ行きを見せており、グラミー賞の中にもラップ部門が新たに設立されるなど、確実にメインストリームに食い込んできているが、ラップが様々な既成のレコードのサウンドを使用することに対し、著作権の侵害であるとする意見や、あんなものは”音楽”じゃない!とする意見や、また人気グループのパブリック・エネミーらはマルコムXで知られる過激な黒人宗教団体ブラック・モスリムの信者であることを標榜し、そのあまりにも強烈なメツセージ故に、一部から”人種差別だ!”等の批判も受けている。
そういったラップのコンサートでは暴動騒ぎも多く、”反暴力、反ドラッグ”を掲げる彼らのコンサートが、そのまま暴力とクラック等の温床になってしまっているという、ある種社会的問題にまで発展しているのが現状だ。
ラップの流行はジェームズ・ブラウンやスライ&ファミリー・ストーンらの60年代ソウル〜ファンク、レア・グルーヴへの再評価を生み、ワシントンDCのゴーゴー、シカゴのハウス・ミュージック等と並行し、80年代の新しい黒人音楽の流れを形成していくことになる。
またロスのフィッシュボーンのように、ロック、ファンク、レゲエを混合させたパワフルなバンド”黒いレッド・ツェッペリン”と呼ばれ、新しい黒人によるロック(ブラック・ロック)のムーヴメントを宣言するリヴィング・カラー、レゲエとハード・コア・パンクとスラッシュ・メタルの混合のようなワシントンDCのバッド・ブレンズなど、ジャンルの境界を取り除いた新しい黒人音楽の在り方を暗示させる新世代のグループも後を絶たない。
その意味で、ロック、ファンク、ソウル、そして白人と黒人という壁を堂々とクリアーして、スーパー・スターの座に君臨しているプリンスの成功は、黒人音楽の流れの中でも革命的なものだといえる。
さて、そういった黒人達による新たなロック革命が進む中で、80年代後半になって白人達の間にジワジワと浸透してきたのが、アメリカン・インディーズと呼ばれる、新しいインディペンデント・アーティスト達だ。
MTVに溢れる売らんかなのキンキラ・ミュージシャンに愛想つかした大学生達の間で、カレッジのラジオ・ステーションを通して拡がっていったこの動きは、西海岸のエニグマ、IRS、スラッシュ、東海岸のコヨーテ..南部のDBといったインディーズ・レーベルの活性化と共に、ジョージア州のREM、フィラデルフィアのフーターズ、ニュージャージーのフィリーズ、またロスのメキシコ人街からはロス・ロボスなどのグループを、全米的な人気にまで押し上げていった。
中でもREMはインディーズを経てメジャーのWEAと契約し、80年代後半のアメリカン・ロックに再び精神的なスピリットを注入した。
これらのバンドの多くはバーズやヴェルヴェトらの60年代フォークやサイケデリックの影響をうけて、再びシンプルなギター・サウンドに立ち戻ろうとするロック・ルネッサンス的な音楽性を持ち、それらと並行する形で、ジョージア・サテライツ、ジェフ・ヒーリー、ジョン・ハイアットらの”ルーツ・ロックン・ロール派”にも、新たな注目が集まってきている。
スラッシュ・メタル
76年にイギリスで登場したパンクが、一時社会問題化するなど世界を震撼させるも、3年後にニューウェイヴとして商業化し衰退し始めたとたん、パンクの登場で一度はオールド・ウェイヴの烙印を押され地下潜伏を余儀なくされていたハード・ロックが、新しい形態で、パワーとエネルギーを放ちながら、短期間のうちにブリティッシュ・ロック界を占領した。
過去のハード・ロックと差別化を図るため、それはヘヴィ・メタルと呼ばれ、当時「サウンズ」誌の記者だったジェフ・バートンがそのムーヴメントをNWOBHMと命名した。
NWOBHはリフ主体で、疾走感を放つスピーディな展開という新しい形態を生んだ。その先駆者がアイアン・メイデン、モーターヘッドで、その後にレイヴンやヴェノムが続き、ベテランのジューダス・プリーストもその形態を取り入れた。その形態が、それから暫くして出現するスラッシュ・メタルの音楽的骨格となったといっても過言ではない。
そして、そうしたバンド達を愛し、支持していたファンが、その影響化で楽器を手にしバンドを組み、その形態を表現し始めた。それがスラッシュ・メタルの草創期に頭角を現したバンド達、メタリカ、アンスラックス、スレイヤーなどだった。80年代初頭のことである。
80年の「レディング・フェスティバル」同様、”ヘヴィ・メタルの祭典化”した82年の「レディング・フェスティバル」を以て、NWOBHMは終焉を見る。
太く、短くの性格を持ったムーヴメントだったが、それだけにNWOBHMが及ぼした影響力は、瞬発力を伴ったとてつもなく大きい物で、残した功績も大きかった。そして”ヘヴィ・メタルは死なず”の格言通り、NWOBHMが及ぼし残した物は海を越えてヨーロッパ、アメリカなど広範囲に流出、浸透し、次なるムーヴメントの準備期間を迎える。それがスラッシュ・メタル・ムーヴメントだ。
ヨーロッパではNWOBHMの影響化にあるコアなバンド、リヴィング・デス、ソドム、ヘルハンマーらがインディから巣立ち地道に活動を始め、「アードショック」などのファンジンがそれを援護し、徐々に地上に押し上げていった。両者の関係は、後にスラッシュ・メタル・ムーヴメントに現地で弾みを付け勢いをもたせる、俗に言うアンダーグラウンド・コネクションを確立する。
そして、83年。スラッシュ・メタルにとって大きな節目となる年が訪れる。その年の上半期にリリースされた2枚のアルバムが、スラッシュ・メタルという新しい音楽の存在を広く知らしめる。そのうちの一枚が、ギタリストのソロ・アルバム専門レーベルとの印象が強いShrapnelより同年1月にリリースされたエキサイターのデビュー・アルバム「Heavy Metal Maniac」だ。クランチの効いたリフと直線的なヴォーカルとヘヴィなリズムが一斉に突っ走るサウンドはまさに強烈の一言につき、特にヨーロッパで高い評価を得た。
そして、もう一枚が、同年7月にMegaforceよりリリースされたメタリカのデビュー・アルバム「KILL'EM ALL」だ。イギリスのヘヴィ・メタル誌「ケラング!」に”世界で一番速いバンド!”と絶賛された同アルバムは、それまで誰も経験したことのない衝撃を満載していた。エキサイターを好意的に迎え入れたヨーロッパのファンは当然メタリカにも飛びつき、いきなり熱狂的に支持したのである。「ケラング!」誌、もしくはイギリスのファンジン「メタル・フォーシス」が、エキサイターとメタリカのサウンドを指して、スラッシュ・メタルと呼んだのが最初であった。スラッシュ・メタルとは造語で、辞書を引いても説明はない。thrashには打つ、むち打つという意味があるのだが、サウンドが放つイメージがその意味と繋がることから、そう呼ばれるようになったのだ。
その後スレイヤーが「ショウ・ノー・マーシー」で、アンスラックスが「フィストフル・オブ・メタル」でそれぞれデビューを飾り、メタリカがヨーロッパに渡り狂乱のライブを行なうや、スラッシュ・メタルは急速に注目、支持を高め、いちムーヴメントとして規模を拡大していく。その流れの上でもっとも大事な役割を果たしたのが、ヨーロッパだった。元来コアでアグレッシヴな音楽を貪欲に受け入れる土地柄だったことと、そこで育まれた前述したアンダーグラウンド・コネクションが、ムーヴメントを支え、後押しし、加速させたのである。
そんな中、84年夏に再びヘヴィ・メタル界を揺さぶる衝撃的な出来事が起こる。メタリカが、大手マネージメント「Q−プライム」、メジャー・レーベル「エレクトラ」とそれぞれ契約したのだ。その過激なスタイルから、スラッシュ・メタルは殆どのメジャーなメディアに”ノイズと音楽の紙一重の、危険性を多分に孕むスタイル”と非難され、昔ながらのオーソドックスなハード・ロック好きのファンには完全にそっぽを向かれた。彼らは目と耳を、同じ頃頭角を現したLAメタル勢の方に向けていた。
その頃のスラッシュ・メタルは確かに勢い、力を持ち始め、ムーヴメントとして頭をもたげてはいたが、それはまだヨーロッパに機軸をおいたアンダーグラウンドな次元のことで、アメリカでは健康的かつきらびやかなイメージをアピールしていたLAメタルの方にスポットライトが当てられていたのだ。
よって大方の見方は”所詮スラッシュ・メタルはアンダーグラウンド・シーンにしか根付かないだろう”だった。だからこそ、メタリカのメジャー・フィールドへの参入が衝撃的だったのである。
これを機に、スラッシュ・メタル勢が矢継ぎ早にメジャー・フィールドに足を踏み入れていく。アンスラックスが「Spreading The Disease」で、メタリカが「メタル・マスター」で、スレイヤーが名作の誉れ高い「レイン・イン・ブラッド」で、メガデスが「Peace Sells・・But Who’s Buying?」でメジャー進出を果たし、オーヴァーキルらもメジャーと契約。またインディからはエクソダス、ニュークリア・アソルトらが登場した。ヨーロッパ勢も健闘し、ソドム、デストラクションの存在がクローズ・アップされた。そんな中、メタリカの「メタル・マスター」は全米チャートで36位をマーク。この時期、スラッシュ・メタルは一つ一つの動きを明確な形にして残したのである。85〜86年のことだ。
それからスラッシュ・メタルは”ブーム化”、”流行化”するくらい大きくなり、一般化し、新しい音楽的展開を見せる。メカデスの謳った”インテレクチュアル・スラッシュ”が手本になり、複雑なテクニック指向を全面に出すバンドも増え、逆にD・R・I、エクセルといった西海岸産のスケーター系のバンド、シック・オブ・イット・オールといったNY出身のハードコア・バンドがこぞってスラッシュ・メタルに接近し、スラッシュっぽいアプローチを見せた。
スラッシュ・メタルを巨大化させたヨーロッパでは、独自のスラッシュ・メタルの動きが確立されていて、ヴェノム、セルティク・フロスト、デストラクション、ソドムの活躍と、それによって知られた彼らの極端に尖った音楽性は、エクストリーム・ヘヴィ・ミュージックの代名詞、デス・メタルを誕生させるという二次的な動きを生むに至った。
ヨーロッパと同じく活況を呈していたのが、サンフランシスコを中心とするベイ・エリア・シーンだった。お隣のLAがLAメタル勢に牛耳られていたのに対し、ベイ・エリアは反対にスラッシュ・メタルを核に成り立ち、夜な夜な充実したクラブ・シーンでデス・エンジェル、テスタメント、ヒーゼン、メタリカらが力を競い合い、全国区へと名乗りを上げようとしていた。
そして88年、スラッシュ・メタルは最大のピークを迎える。メガデスの「ソー・ファー・ソー・グッド・ソー・ファット」の収録曲であるセックス・ピストルズのカヴァー”アナーキー・イン・ザ・UK”がシングルヒットしたのを初めとして、メタリカの「メタル・ジャスティス」が全米チャート初登場3位を記録、後に”怪物アルバム”となった他、アンスラックスの「ステート・オブ・ユーフォーリア」が100万枚のセールスを記録してプラチナ・ディスクを、スレイヤーの「サウス・オブ・ヘブン」が50万枚を売り、ゴールド・ディスクそれぞれ獲得するなど、この時期スラッシュ・メタルは数多くのヒットを生んだ。それはすなわちスラッシュ・メタルが世界のメタル市場で市民権を得たことを表していた。特にメタリカの人気の高さは、この頃既に凄かった。
しかし、92年を迎えると、スラッシュ・メタルはその存在意義から在り方までを問われることになる。91年中盤にリリースされたメタリカの名作とも問題作とも呼ばれた「METALLICA」は、アメリカだけで500万枚以上売るという天文学的数字を計上し、バンドをキング・オブ・スラッシュ・メタルからガンズ・アンド・ローゼスとならぶ、90s’ロック・シーンの顔役にまで押し上げた。
「METALLICA」はスラッシュ・メタルの残り香を漂わせた、その当時最高且つ最大のヘヴィ・メタル・アルバムだったが、それはある意味で、スラッシュ・メタルが、音楽的にこれ以上の伸びや拡がりをもてなくなってきていることも言い表していた。
現にその後リリースされたメガデスの「破滅へのカウントダウン」、テスタメントの「儀式」、オーブァーキルの「アイ・ヒアー・ブラック」、エクソダスの「フォールス・オブ・ハビット」、アンスラックスの「サウンド・オブ・ホワイト・ノイズ」は、スラッシュ・メタルの音楽的三種の神器と言われたスピード、アグレッション、ヘヴィネスではなく、細心の注意を払った楽曲、印象的なメロディー、そしてグルーヴなどを追求した作品だった。
誕生してからほぼ10年、そこでスラッシュ・メタルは最初の歴史にピリオドを打った。当時、テスタメントのチャック・ビリーは「スラッシュ・メタルはもう終わったんだよ」と告白している。音楽的限界と、時代の流れと添い寝できない音楽と周囲に判断されたことが、その原因だった。
スレイヤーはその間沈黙していたが、アンスラックス、メガデスを除くスラッシュ・メタル勢は大打撃を食らった。解散、メンバー・チェンジが相次ぎ、契約を失ったバンドも多かった。
そこでクローズ・アップされたコアでアグレッシヴな音楽が、スラッシュ・メタルからの音楽的影響を根底に敷いたデス・メタルで、デス、カーカス、オビチュアリーらが人気を得た。そして”90年代のヘヴィネス”を掲げたパンテラやヘルメットにも旧スラッシュ・メタル・ファンは飛びつき支持した。
現在、スラッシュ・メタルをやっているバンドの数は圧倒的に少なくなり、欧米ではスラッシュ・メタルという言葉すら使われなくなってきた状況である。
GRUNGE,ALTERNATIVE ROCK
グラミー賞に「オルタナティブ・ミュージック・オブ・ジ・イヤー」が新設されたのは91年の第33回のことだった。受賞したシンニード・オコナーが賞をボイコットするという、いかにもオルタナティブな幕開けだった。王道中の王道たる国民的音楽の祭典に”もう一つの”音楽の為の賞が設立される。このことはオルタナティブ・ミュージックが既に王道である事を物語っていた。
この数年でオルタナティブ・ミュージックはその意味と裏腹にぐんぐん主流となってきた。インディ・レーベル、アーティストの交流の場として始まり、今ではその年の流れを決めるとまで言われるニュー・ミュージック・セミナーでも、15回目にはダンス、ヒップホップとオルタナティブばかりといった様子で、かつては一時的な新しい流行の一つと捉えられていたものが、いつの間にかメインストリームの中にしっかり根ざし、大きなうなりとなっていることを示していた。
もっとも、オルタナティブと呼ばれる音楽を、スタイルで限定するのは不可能である。従来のスタイルからはみ出したものをすべてひっくるめてそう呼んでいるといっても過言でないからだ。オルタナティブ・ミュージックという言葉自体は、新しい物ではない。80年代末、グランジ、ハード・コア、ミクスチャー・ロックなどの総称として、この言葉がアメリカで使われ始めたのだが、その10年近く前にパンク、ニュー・ウェーヴから枝別れし、旺盛に実験精神を取り込んでいった音楽を、オルタナティヴと呼んでいた。
これは主にイギリスやドイツなどヨーロッパで起こったムーヴメントだった。この2つのオルタナティブ・ミュージックは実は一続きなのである。78年に行われたセックス・ピストルズのアメリカ・ツアーは失敗したが、アメリカでも新しい動きは起こっていたのだ。知的なカリスマだったパティ・スミス、テレヴィジョンらが活動を止めても、ノー・ニューヨークと言われる一群のアーティストが後を受け継ぎ、一段と実験的な音楽を発展させていた。今オルタナティブと呼ばれる音楽の、萌芽のひとつがこれである。
NYばかりでなく、オハイオ州アクロンで結成されたテクノ・バンドディーヴォや、セックス・ピストルズがたどり着くはずだった西海岸では、L.A.パンクが動き出していた。
ところが70年代末から80年代初頭のアメリカの音楽業界は、ニューヨーク市が財政赤字で破産しかけるほど悪化した経済を繁栄して冷え切っていた。大型ツアーも軒並み失敗し、大ヒットを出せるアーティストもいなかった。レコード会社はリスクの高い新人との契約に慎重になり、人口の多いウッドストック世代をターゲットにした。70年代的なAORに活路を見いだしていた。
80年度のグラミー賞では、クリストファー・クロスが主だった賞を総なめし、ビルボード年間チャートではドナ・サマー、ビー・ジーズ、ケニー・ロジャーズのベスト盤がトップ10に入ってる。新しい音楽に刺激を受けた若い人たちの不満が、水面下で大きくなっていったのは当然だろう。
メジャー・レーベルが手を出さない若いバンド達にとって救いになったのがインディ・レーベルである。その中で最初に成功を収めたのはI.R.Sだ。ポリスのメンバーだったスチュワート・コープランドの兄マイルス・コープランドU世が79年にはじめたもので、82年にGO−GO’sがNO.1になって一躍注目された。続いてR.E.M 、ティムバック3など、ガレージ・サイケと呼ばれた若いバンドを次々に送り出していく。A&M傘下にあったI.R.Sと同じように、EMIアメリカと契約したエニグマも、イギリスのインディ・レーベルを輸入していたグリーン・ワールドのウィリアム・ハインが設立したもので、レイン・パレードやドリーム・シンジケートといったバンドの作品を紹介し、こちらはペイズリー・アンダーグラウンドと呼ばれた。
これら60年代的なサイケデリック感覚を持ったギター・バンド達は、エレクトロ・ポップだらけになっていたシーンのなかで新鮮で、中でもR.E.Mは評論家筋でも高い評価を受け、こうした動きの象徴になった。
同じ頃にスタートしたインディ・レーベルとしては、ジェロ・ビアフラの設立したオルタナティブ・テンタクルズやソニック・ユースのファースト作やハスカー・ドゥの中期の作品を出したカリフォルニアの老舗SSTなどがある。また、その後ソニック・ユースが移って行ったホームステッドやブラスト・ファーストなども間もなく始まった。そしてニルヴァーナで有名になったSUB POPやスラッシュ、DBなど、80年代半ばにはインディ・レーベルがいくつも誕生し、若いバンドを紹介していった。
そうしたバンドが成功する土壌となったのが、ロック・ファンにはすっかりお馴染みのCMJである。CMJとはアメリカの大学にあるFM局を組織化したCMIが発行する雑誌で、これに掲載されるチャートがシーンの大きな牽引力となった。アメリカでは各大学の学生自治会が独自に運営するFM局が60年代末から多数誕生し、学生の人気を集めていた。言うまでもないが学内放送ではない。大学を中心に、その町全部をカヴァーするぐらいのFM局なのだ。
そうした全国の大学にあるカレッジFMを、マサチューセッツ州ブランダイズ大学の「WBRS」のDJだったロバート・ヘイバーが組織化して、78年に「CMJ(カレッジ・メディア・ジャーナル)」を発刊、カレッジFMのデータを集計したチャートを掲載したのが始まりである。
メジャーなチャートに載るような音楽は流さない、というカレッジFMの反骨精神を反映して、CMJにはもっぱら一般には知られないアーティストや国内外のインディものが並ぶことになるのだが、それがCMJ発足の動機と同じように「自分たちの音楽の好みがメジャー・シーンに反映されていない」と感じる層の人気を呼んで、大きな影響力を持つに至っている。次第に参加局が増えて今や全国で1500を越える局が加入しており、カレッジ・チャートは、10万枚のヒットを生み出す力があると言われるほどだ。R.E.MはカレッジFMから生まれた代表的なスターで、I.R.Sを離れた今もCMJの常連になっている。
それぞれのカレッジFM局は地方色や局の個性を活かしたユニークな選曲をしている。ローカル・カラー豊かな地元バンドを積極的に紹介し、そうしたバンドが人気を得たりしている。それが全国規模になっていくところにCMJのおもしろさがある。メキシコ系アメリカ人のバンド、ロス・ロボスやポルカのブレイヴ・コンボ、シンディ・ローパーとの共演で知られるフーターズ、ミネアポリスのハスカー・ドゥやリプレイメンツ、そしてシアトルのSUB POPからは、サウンドガーデン、パール・ジャムの母体であるグリーン・リヴァーなど、地方都市の個性派が広く知られるようになったのは、CMJの功績だろう。
メタリカやガンズ・アンド・ローゼスの成功は、荒々しいギター・サウンドが一部の人々だけでなく多くの人にとってカタルシスになることを示したと言える。そしてゲフィン・レコードがインディ・シーンのカルトヒーロー、ソニック・ユース、続いてニルヴァーナと契約し、92年にニルヴァーナが大ブレイクするに至って、それは誰の目にも明らかになった。メジャー・レーベルにとってキャリアのあるインディ・バンドは、ある程度セールスが見込めるし、バンドにとっては自分たちの指揮権を活かせれば金銭トラブルの起こりがちなインディよりメジャーの方が楽に決まっている。ソニック・ユースやニルヴァーナがゲフィンと契約したのも、そうした理由だったらしい。
しかし、ニルヴァーナの成功で、彼らが所属したシアトルのインディ・レーベルSUB POPが注目されると同時に、長年活動してきたソウル・アサイラム、ダイナソーJr.などの一軍がグランジと呼ばれ、ファッションから映画まで連動する流行になってしまったのは記憶に新しい。
メジャー・レーベルがサウンドガーデン、アリス・イン・チェインズといった、ヘヴィなサウンドのバンドと契約することに躊躇しなくなったのは、マーケットの変化を無視できなくなったからであり、彼らの作品は実際にアルバムチャートで上位にランクされたのである。
オルタナティブの活性化は、英国のP.J .ハーヴェイなど個性的な女性アーティストの可能性も拡大したり、BECKやG・ラブ&スペシャル・ソースのように伝統的な音楽を新感覚で演奏するものを浮上させたり、またザ・ポウジーズが”再発見”のきっかけを作ったアレックス・チルトンのように、過去のヒーローがニール・ヤングだけでないことも見せてくれた。
だが90年代も半ばになり、ニルヴァーナと並ぶグランジの雄パール・ジャムの「バイタロジー」がかつてのガンズ・アンド・ローゼス以上の初回出荷350万枚という記録を打ち立てるほど”オルタナティブ”が定着し成熟してくると、更に若々しいサウンドが生まれてきた。
エピタフ・レーベルのオフスプリングやバッド・レリジョン、サイアーのグリーン・デイなど、グランジを継承しながら、よりパンキッシュなスピード感を持ったバンド達である。
BRIT POP
私がある程度の理解力をもって臨むことのできたムーブメント。それがブリットポップだった。ビートルズ直系のメロディアスなギターバンドが大挙してシーンの表舞台に現れたわけだが、メディアによって作り出されたモノに過ぎないとか、玉石混合でなにも残らなかったうんぬん言われているが私は次々と出てくる新しい才能に驚喜し、それは楽しい瞬間であった。
このムーブメントはブラーがアメリカ進出に失敗し、自らのアイデンティティを見つめ直した瞬間から始まる。当時、イギリス国内にはアメリカから押し寄せたグランジの波に席巻されており、イギリス的な部分はバンドにとって致命傷にもなりかねない状況であった。だがアメリカ進出に失敗し、傷つき破れ果てたブラーはイギリス的な部分こそ自分たちのよりどころであると考えロックやダンスシーンが複雑に絡み合うイギリスという舞台にふさわしいポップ、すなわちブリット・ポップを誕生させたのである。彼らが出したアルバム”パーク・ライフ”はロンドンの日常をデーモン独特のシニカルな詩で描き出し、ジャケから始まり、徹底的にイギリス的な部分にこだわったこのアルバムはメディアに絶賛されることになる。市民も”自分たちの音”を好意的に受け入れ、ビートルズの継承者であると自ら主張する”オアシス”の登場によってビートルズ直系のメロディアスなギターバンドが次々と発掘される要因となりブームは過熱の一途をたどっていく。オアシスのセカンドアルバム”モーニング・グローリー”は全米でも4位を記録し、同じ日にシングルを出したことによって社会を巻き込んでのお祭り騒ぎとなったブラーとオアシスのシングル対決でブームは最高潮を迎える。またこのブームが生んだ副産物としてベテラン選手であったパルプが注目されたり、ヴァーブ、オーシャン・カラー・シーン、シャーラタンズといった”過去”のバンド達の華麗なる復活の舞台を用意したことも上げられる。オアシスの地元であるマンチェスターのバンドを中心にスーパーグラスやクーラシェーカー、ブルートーンズといった新しい才能も次々と世に現れ、ブームが終わった現在でも活躍している。このブームにケリを付けたのはムーヴメントを作り出したブラーのボーカルであるデーモンの”プリットポップは死んだ”発言であるが、彼はこの宣言と共にリリースされたバンドの名が冠されたアルバムでグランジよりのいままでなかったアグレッシブな音を作りだし、成長した結果としてアメリカにもようやく受け入れられたのだった。